2006所感メモ

一般公開アクセス比較的簡単映画”いわゆる一般的”映画”について。
ヌーヴェルヴァーグ以降、映画作りは、映画文法を踏まえないような”個人的”流儀が横行、更にはビジネス化著しい今日では、映画はゲージツという見方よりは、娯楽・消費物として機能しているように思える。結果、特に近年の映画では、娯楽モノを判断するのと同様、個人で映画のドコ・ナニを楽しむかという点が映画判断(批評)の基幹となっているように見受けられる。こういう捉え方が一般的な風潮ではゲージツ的風貌を持った作品のときでさえもはや同様の方法が、当然であるが、とられている。

映画は芸術であるというよりは娯楽であるというほうが絶対的に近い。
映画産業・世界の悪循環(鑑賞者の質の低下〜質よりも売れる作品作り〜

映画をあくまで「映画」として捉えるならば個人的に強く信じるところでは、
テーマより何よりも(望むべくなら映画文法が消化されたうえでの)映像(イマージュ)が優先される。
または、「映画表現」がなされているかどうか。
映像+音響+演出、「映画ならでは」というような言い方がされるかもしれない。

以上のことと”娯楽”ということを考え合わせた場合、自分にとってテーマにおける優劣という問題はほとんど消え去る。
哲学的であろうが、恋愛モノ、西部劇、ミュージカル、ちゃんばらであろうが、最終的にモノをいうのは、「映像」の訴求力/吸引力、「映画表現」なのである。



最近、鑑賞したものから考察・所感


ハワード・ホークス「赤い河」西部劇は映画的要素満載、そして映画を知っているかどうか
サミュエル・フラー最前線物語」”映画的演出”の重要性 (鑑賞2回の違い)


パトリス・ルコント列車に乗った男」 (2002) 映画表現の弱さ 特に冒頭 から よかった点2点 に至るまで
(あんとわーぬさま ごめんなさい)
「歓楽通り」 (2002) 多分最後の試金石

映画的にしていいこと悪いことがあるとするなら。。。
銀行強盗シークエンスでの安易な発想。
感動する人がいるであろうのテーマだけに、同様に惜しまれるラストの演出の安易さ。

失敗:1.映画のつくりそのもの。2.全体の流れもしくは、”筋”の”みせかた”。3.商業的失敗。

大丈夫か↓この状況?(もしくはタルコフスキーソクーロフ)
          (ソクーロフは果たして成長したのか?)
           (注:このあたりで眠くなる門外漢は当然問題外として)
デプレシャン「キングス&クィーン」(2004) 明言するなら、面白い、
しかし、手放しに喜ぶほどの大傑作か?(勿論そう思わないゆえ)
しかし個人的感想よりも、この”状況”に門外漢問題外よりも更に悪い状況をみる。


「魂を救え!」 (1992) 「二十歳の死」 (1991)
「そして僕は恋をする」 (1996)  最後の試金石 



素材・テーマがなんであろうとも監督がだめだと作品もだめだ(あたりまえ
テーマにおぼれすぎ。(下賎・スキャンダラスな視点)
ケン・ラッセルブニュエルキューブリックグリーナウェイでもいい、凄い作品になっているだろう。
ラッセルの凄いところは天才的でありながら臆することなくB級(にみえる作品を)をとることである。
だめな人は自分が何ができる、扱えるかを知らない、通常自分の器以上のものを作ろうして失敗しているが
それさえ気がついていない。

「ウッカーマン」
インタビュー:自信にあふれた自画自賛の監督スタッフの映画ほど酷い出来だ。
当然だ、自己批判なく良いものができるわけがない。
客観性・説得力に欠けるもはなはだしい。


続く 8/20